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第十二章.......「O-wheel の謎」




○黙示録のエゼキエル書    >1988/02/05


 エゼキエル書は旧約聖書のなかの最も難解といわれている預言書の一つだ。多くの註解者がこのエゼキエル書の解読を試みてきた。しかし、二十世紀の今日まで二千五百年間、エゼキエル書を十分に理解した書物は見いだすことができない。カバラ神秘主義では、「メルカバ」(天の車)を神の玉座といい、暝想の究極に見いだすものとしている。「メルカバ」はエゼキエル書に源流があると言われている。エゼキエル書を難解なものにしているのは、それらの指示語がなんなのかがよく分からないことだ。高度な科学的な発達をみた今日の認識をもってしても真実の意味を汲み取ることがなかなかできない。正統派神学は神秘的解釈をを排斥するためなおさら解釈を困難なものにしている。一方、黙示録はきわめて神秘的であるため、エゼキエル書は幻想文学の源流ともいわれる。後世の神秘思想と幻想文学の多くの枝葉を生み出した系譜がある。
 本来、「黙示録」は難解であるという意味ではない。「黙示」という名称は、本来ギリシャ語で、「覆いを取り除く」、「明らかにする」という動詞から派生した名詞であり、「黙示録」とは「秘められた真理の表明」という意味が含まれている。黙示録という預言の書は、「神の奥義」の啓示であるのだ。ユダヤの偉大なる知恵という深遠でとてつもない遺産なのである。


○エゼキエルはどんな人だったのか  


 エゼキエルは祭司であった父、「ブジ」の子として、紀元前623年エルサレムで生まれ、信仰深い環境に育った。長じて父と同じ祭司になるはずであったが、しかし、その頃のユダ国は強国のバビロニアに脅かされていた。そして、とうとう紀元前597年、皇帝ネブカデレザルによってエルサレムは攻め滅ぼされた。エルサレムの他の多くの住人とともに、エゼキエルはバビロンに移され、捕囚の身となった。この時代は、ユダヤ民族の受難のきびしいときであったが、(前587ー538)バビロニアの占星術や度量衡、貨幣制度などの高度な文化がユダヤ人に取り入れられた時代でもあった。バビロンは現在のイラクの一部である。こうして、捕囚の民となって5年目、エゼキエルが30才の時、ケバル河のほとりで神からの啓示を受けた。「わたしがケバル河のほとりで捕囚の人々とともにいた時、天が開け、神の幻が見えた。」、とある。エゼキエルの預言者としての活動はそこから始まった。 ケバル川とは、この捕囚の身となった地、バビロンを流れるユーフラテス川から水を引きこんだ灌漑用の運河のことで、それは、同時にバビロンの市内でのできごとだったといえる。
 人々といるとき、とある。ここから、この出来事は昼間大勢の人とともに労役についていたときに起きたといえよう。したがって、もし、それが物体的なものであるとすれば、エゼキエルだけに見えたのではなく、大勢の人々に目撃されたはずである。エゼキエルその人については聖書で知られることがそのほとんどで、めぼしい別伝はない。

○ エゼキエルは見たものは 聖マンダラ?
 

この第1章はエゼキエルが神の啓示に遭遇した描写であり、いわば接神体験である。それがどんなに強烈な出来事であったか想像に余りある。 この時から、預言者としてのエゼキエルが誕生した。目覚めは突然あらわれたようだ。 エゼキエルは、神の玉座を見、それを写実的に、かつ克明に書いた側面を持っている。 覚醒の根底にあるものは本源的にはさまざまな目覚めた人と共通なものであり、急激な人格の変化を示す。 釈尊では「ダンマ(dhamma)」であり、イエスは「プネウマ」といい、エゼキエルは「神の幻」と言った。共通のモチーフは、驚くべきことにマンダラによく似たアイコンになる。
マンダラのイコノロジーの中に、エゼキエルのメルカバもまた改めて現われる。 さて、古来、エゼキエルが見たものを幻(幻想)としてとらえる見方と、物体としてみる見方とがあった。しかし、そのどちらでもない。エゼキエルは、「UFO」を目撃したに違いないと考えるアメリカの研究者もいる。ある秩序ある形を持っていることは事実だ。彼はその目撃したものを驚きとともに、深く心に刻みこみ、あたかも「観察者」の目で語っているようだ。


○エゼキエルについて


 エゼキエルはユダヤ教に幼い頃から親しみ、ラビになるに十分の素養があり、その描写は旧約聖書の伝統的言葉を使っている。創世記から連綿と受け継がれた伝統の書には、ある秘密の規則がある。連綿と守られている隠された本質を表す言葉に隠された指示語を含ませている。例えば、「四つの生きもの」とは何か? この指示語の本来の意味は別にある。 
 エゼキエルは「living cratures」(生き物)とし、ヨハネの黙示録では「beasts」(獣)と表れているが、これら、生きものとは黄道12宮の”4固定星座”の意味を含ませた二重指示語である。

「man /人」が水瓶を、
「lion/獅子」が獅子を、
「ox/牛」が、牡牛を、
そして、「Eagle/鷲」が蠍(さそり)を指している。

 「4つの生きもの」は、解釈上のキーワードとなる。「四つの生きもの」は隠された語彙で旧約聖書に共通している。彼らユダヤ人の暗黙の規則語だといえる。
 エゼキエルが見たものは、きわめて躍動的で激しい動きをするものである。「稲妻のひらめきのように速く行き来していた。」(1~14)という表現さえある。また、その形はきわめて秩序のある幾何学性をもっている。ソクラテスのミクロコスモス(プシケー)が恐ろしくほど「秩序」そのものであったことを想起すると、人間の魂も秩序のあるものとして考えられてきた。つまり、魂はマクロコスモスである天文ともイメージが重複していると考えるのは、しごく当然のことなのだ。ところで、エゼキエルが見た、その「見た」とあるのは英訳の聖書ではでは「see]、「look]とか、「behold]となっている。見たものは、「visions  of God ]、すなわち「神の幻」である。
 聖書のなかで、「見た」、英文で「See」または、「behold]が使われているのはエゼキエルのほかにそう多くない。イザヤ書6章、ダニエル書と新約のヨハネの黙示録なども断片的な記述があるが、エゼキエル書第一章を越えるものはない。 さて、ヨハネの黙示録は新しい天のアルカナを描くことが主眼にある。旧約聖書のエゼキエル書とそこが違う。キリスト復活を「天の幻」においてヨハネは描き、イエスが救世主であったことを示そうとする。
 エゼキエルの見たものは、「神の御座」であり、それ故、長き世に渡って隠されてきた天国の奥義、そのものである。


Ezekiel (Authorized King James Version)
&口語訳聖書(日本聖書協会版)


Now it came to pass in the thirtieth year, in the fourth month, in the fifth day of the month, as I was among the captives by the river of Chebar, that the heavens were opened, I saw visions of God.

[1] 第三十年四月五日に、わたしがケバル川のほとりで、捕囚の人々のうちにいた時、天が開けて、神の幻を見た。


2 In the fifth day of the month, which was the fifth year of king Jehoiachin's captivity.

[2]これはエホヤキン王の捕らえ移された第五年であって、その月の五日に、



3 The word of the Lord came expressly unto Exekiel the priest, the son of Buzi, in the land of the Chaldeans by the river Chebar; and the hand of the Load was there upon him.

[3]主の言葉がケバル川のほとり、カルデびとの地でブジの子祭司エゼキエルに臨み、主の手がその所で彼の上にあった。


Ezekiel's Vision


4 And I looked, and, behold, a whirlwind came out of the north, a great cloud, and a fire infolding itself, and a brighteness was about it, and out of the midst thereof as the colour of amber, out of midst of the fire.

[4] わたしが見ていると、見よ、激しい風と大いなる雲が北から来て、その周囲に輝きがあり、たえず火を吹き出していた。その火のなかに青銅のように輝くものがあった。


5 Also out of the midst thereof came the likeness of four living creatures. And this was their appearance; they had the likeness of a man.

[5] また、その中から四つの生きものの形がでてきた。その様子はこうである。彼らは人の姿をもっていた。



6 And every one had four faces, and every one had four wings.

[6]おのおの四つの顔をもち、またそのおのおのに四つの翼があった。


7 And their feet were straight feet; and the sole of their feet was likethe sole of a calf's foot: and they sparkled like the colour of burnished brass.

[7]その足はまっすぐで、足のうらは子牛の足のうらのようであり、みがいた青銅のように光っていた。



8 And they had the hands of a man under their wings on their four sides; and they four had their faces and their wings.

[8] その四方に、そのおのおのの翼の下に人の手があった。この四つの者はみな顔と翼をもち、


9 Their wings were joined one to another; they turned not when they went; they went every one straight forward.


[9]翼は互いに連なり、ゆくときは回らずに、各々顔の向かうところにまっすぐ進んだ。



10 As for likeness of their faces, they four had the face of a man, and the face of a lion, on the right side: and they four had the face of an ox on the left side; they four also had the face of an eagle.

[10] 顔の形は、おのおの前方に人の顔をもっていた。四つの者は右の方に、ししの顔をもち、四つの者は左の方に牛の顔をもち、また四つの者は後の方にわしの顔をもっていた。



11 Thus were their faces: and their wings were stretched upward; two wings of every one were joined one to another, and two covered their bodys.

[11]彼らの顔はこのようであった。その翼は高く伸ばされ、その二つは互いに連なり、他の二つをもってからだをおおっていた。

12 And they(wings) went every one straight forward: whither the spirit was to go, the went; and they turned not when they went.

[12] 彼らはおのおののその顔の向かうところへまっすぐ行き、霊の行くところは彼らも行き、その行く時は回らない。



13 As for the likeness of the living crreatures, their appearance was like burning coals of fire, and like the appearance of lamps: it went up and down among the living cratures; and the fire was bright, and out of the fire went forth lightning.

[13] この生きもののうちには燃える炭の火(Lamps)のようなものがあり、たいまつのように、生きものの中を行き来している。火は輝いて、その火から、いなずまが出ていた。



14 And the living cratures ran and returned as the appearance of a flash of lightning.

[14]生きものは、いなずまのひらめきのように速く行き来していた。



15 Now as I beheld the living crreatures, behold one wheel upon the earth by the living creatures, with his four faces.

[15] 「わたしが生きものを見ていると、生きもののかたわら、地の上に輪があった。四つの生きもののおのおのに、一つずつのの輪である。


16 The appearance of the wheels and their work was like unto the colour of a beryl; and they four had one likeness: and their appearance and their work was as it were wheel in the middle of a wheel.

[16]もろもろの輪の形と作りは、光る貴かんらん石のようである。四つのものは同じ形で、その作りは、あたかも、輪の中に輪があるようである。



17 When they went, they went upon their four side; and they turned not when they went.

[17]その行く時、彼らは四方のいずれかに行き、行く時は回らない。



18 As for their rings, they were so high that they were dreadful; and their rings were full of eyes round about them four.

[18]四つの輪には輪縁とやとがあり、その輪縁の周囲は目をもって満たされていた。



19 And when the living creatures went, the wheels went by them: and when the living creatures were lifted up from the erath, the wheels were lifted up.

[19] 生きものが行くときには、その輪もかたわらに行き、生きものが地からあがる時は、輪もあがる。



20 Whithersoever the spirit was to go, they went, thither was their was their spirit to go; and the wheels were lifted up over against them: for the spirit of the living crature was in the wheels.

[20]霊の行くところには彼らも行き、輪は彼らに伴ってあがる。生きものの霊が輪の中にあるからである。



21 When those went, these went; and when those stood, these stood; and when those were lifted up from the earth, the wheels were lifted up over against them: for the spirit of the living creature was in the wheels.

[21] かれらが行く時は、かれらが止まる時は、これらもとどまり、彼らが地からあがる時は、輪もまたこれらと共に上あが生きものの霊が輪の中にあるからである。


22 And the likeness of the firmament upon the heads of living creature was as the color of the terrible crystal,stretced forth over theri heads above.

[22] 生きものの頭の上に水晶のように輝く大空の形があって、彼らの頭の上に広がっている。


23 And under the formament were their wings straight, the one toward the other: every one had two, which covered on this side, and every one had two, which covered on that side, their bodies.

[23]大空の下にはまっすぐ伸ばした翼があり、互いに相連なり、生きものはおのおの2つの翼をもって、からだをおおっている。



24 And when they went, I heard the nose of their wings, like the noise of great waters, as the voice of the Almighty, the voice fo speech,as the noise of an host: when they stood, and had let down their wings.

[24]その行く時、わたしは大水の声、全能者の声のような翼の声をきいた。その声の響きは大軍の声のようで、そのとどまる時は、翼をたれる。



25 And there was a voice form the firmament that was over their heads, when they stood,and had let down their wings.

[25]また彼らの頭の上の大空から声があった。彼らが立ちとどまる時は翼をおろした。


26 And above the firmament that was over their heads was the likeness of a throne, as the appearance of a sapphire stone, and upon the likeness of the throne was likeness as the appearace of a man above upon it.

[26] 彼らの頭の上の大空の上に、サファイヤのような位の形があった。またその位の形の上に、人の姿のような形があった。



27 And I saw as the colour of amber, as the appearance of fire round about within it, from the appearance of his loins even upward, and from the appearance of his loins even downpward, I saw as it were the appearance of fire, and it had brightness round about.

[27] そしてその腰とみえる所の下の方、火のようなものを見た。そして彼のまわりに輝きがあった。



28 As the appearance of the bow that is in the cloud in the day of rain, so was the appearance of the brightness round about. This was the appearance of the likeness of the glory of the Lord. And When I saw it, I fell upon my face, and I heard a voice of one that spake.


[28]そのまわりにある輝きの様は、雨の日に雲に起こる虹のようであった。主の栄光の形のさまは、このようであった。わたしはこれを見て、わたしの顔をふせたとき、語るものの声を聞いた。 ***

○ エゼキエルのいう「雲」とはなにか?


[4] わたしが見ていると、見よ、激しい風と大いなる雲が北から来て、その周囲に輝きがあり、たえず火を吹き出していた。その火のなかに青銅のように輝くものがあった。口語訳聖書(日本聖書協会版)

 丸い形で、中央が火のように輝き、その周りを明るく照らす雲のように見えるものが北から現われたという。この雲という言葉は聖書には定形語のようによく登場するので、ここで参照してほしい。 

「みよ彼は雲のごとく上りきたらんその車(chariot)は疾風のごとくにして、その馬は鷹よりも疾し」 
エレミヤ記第4章13

「雲のごとくにとび鳩のその住みかにとびかえるがごとくして来たる者はたれぞ」 
イザヤ書60章8

「彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして、雲のなかから声がした。これはわたしの愛する子、わたしの心にかなうものである。」 
マタイ17ー5

 「雲」の記述はエレミヤ記、イザヤ書、新訳マタイにも見られるように遭遇に際して使用頻度が高い。
雲は車輪と同義であり、神の現われそのものである。
エレミア書4-13の車は、Chariotが使われ、古代の2輪車の戦車のこと。雲は戦車でもある。
[4] .......、その周囲に輝きがあり、たえず火を吹き出していた。その火のなかに青銅のように輝くものがあった。


 「and out of the midst thereof as the colour of amber,out of the midst of the fire.」 

 雲の真ん中に輝く光があった。その光は炎のようであり、そして青銅色に輝いていた。
青銅色とは、つまり真鍮の色。「雲」のイメージは、疾風のようにはやく動く車輪のような丸いもの。 
「雲」は感覚表現では「黄金に輝く炎をなかに持つ光芒」となる。これは全体像となるだろう。



5 Also out of the midst thereof came the likeness of four living creatures.And this was their appearance; they  had the likeness of a man. 

 またその中から4つの生きものの形がでてきた。その様子はこうである。彼らは人の姿をもっていた。

・・・・「人」とは、何か。聖書では、単に「人」といえば、「主」のことを指す。(中世の神秘画は「人の姿」をそのまま人物像として描いているが、幾何学的なかたちであろう。)4つの生きものとは、水瓶、牡牛、獅子、蠍に対応した4つのケルブを表す。 生き物は輪のなかのSPIRITでもあるので、まるい輪(球体)のイメージとなる。その球体の見える樣が人の姿となる。


○4つの生き物と翼とは何を指すか  


 ケルブ(輪)は、その中におのおの4つのケルビム(輪)をもち、またおのおのに6つの翼(蓮華)がある。[[every one]は、ケルブをさす。「4つの生きもの」の、ひとつ、ひとつを指し6つの翼で包まれている。6つの翼は、2つづつ組み合わされており、動きが連動している。[twain]とは[two]の古代語になる。

And the four beasts had each of them six wings about him ; and they were full of eyes within:.
「この4つの生きものには6つの翼があり、その翼のまわりも内側も目でみちていた。」
ヨハネの黙示録(4ー8)

 
[each one had six wings; with twain he covered his face, and with twain he covered his feet,and with twain he did fly. ISAIH 6-2
 「ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。その上にセラピムが立ち、おのおの6つの翼をもっていた。その2つをもって顔をおおい、2つをもって足をおおい、2つをもって飛びかけり、互いに呼びかわして言った。聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ。」
イザヤ書6章2節



6[And every one had four faces, and every one had four  wings.]
6 ・・・And every one had four faces, and every one had four wings.

[6]おのおの四つの顔をもち、またそのおのおのに四つの翼があった。
エゼキエル書1-6


 おそらく、セラピムとは、ケルビムの音読の差であろう。Wingsは球体であるケルブを包む6弁蓮華で、これは1対で同時に閉じたり、開いたりするらしい。まさに、fly(飛ぶ)動きをもつ。
イザヤ書、ヨハネの黙示録では6つのつばさ、エゼキエルは4つのつばさと相違がある。

 23 「 and their wings were stretched  upward; two wings of every  one were joined one to another, and two covered their bodies.」

 その翼は高く伸ばされ、その2つは互いに連なり、他の2つをもってからだをおおっていた。つまり、
4つのつばさのうち、上下、左右のつばさは結びついて、連動した動作をする。

4つ、もしくは6つの「翼」が互いに連なって(joined one to another)球体(Body)をつつんでいる。
単一の、しかも複合体はすべて球体をなしていて、「翼」がこれを包み(COVER)込んでいる。

comet







○彗星の尾のようなものが生き物から放射している。

ヘール・ボップ彗星





7 and their feet were straight feet; and the sole of their feet was the sole of a calf’s foot: and they sparkled like the colour of burnished brass.」 

英語圏では、「foot]といえば、彗星(Comet)の尾を指す。あの長い尾っぽのことである。牛の足と訳すと意味不明になる。星からたなびく尾をのようなものが、「いきもの」から、まっすぐに出ているとなる。 


And his feet like unto fine brass, as if they burned in a furnace; and his voice as the sound of many wateres. [The Revelation of Saint John The Divine] 1-15

 「その足は炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。」 
ヨハネの黙示録1~15 

ヨハネの黙示録と対比してみると、みがいた青銅のようにまぶしく輝くようなものが輪から飛び出していて、その先端が二つに別れていた。
 「foot」は輝く真鍮の色(the burnished brass.)をしておりそれは、まっすぐで、先端が割れているイメージとなる。 「足のうらは子牛の足の裏のようであり・・・・」は、「ひづめ」のような形ととる。そして、おのおのの生きもの(輪)とつながっている。こうして、車輪のイメージも浮かび上がる。この輝く黄金の[Feet]は、炎に燃えあがるもろばの剣のイメージであり、聖書の随所にみられる燃える炎のような刀に相当する。それは、あたかも軸となり、車輪のように見えるそのものではないだろうか?  
   

○4つの球体は手のようなもので御座と繋がっている  


 8「And they had the hands of  a man under their wings on their four sides; and they four had their faces and their wings」 

「Their wings were joined one to another;they turned not when they went; they went every one straight forword.」 

「その四方に、そのおのおのの翼の下に人の手があった。」

この[4つの者]はみな同じ顔と翼をもち、翼は互いに連なり、ゆくときは回らずにおのおの顔の向かうところにまっすぐ進んだ。 

「人の手」「hands of a man」とは、「a man」は主の意味で、これは主の手ということ。

 エゼキエルは第十章でも、手のことを書いている。

「one cherub stretched forth his hand」エゼキエル書10ー7

手は、1本で(his handと単数になっている)、ケルブから真っすぐに伸ばされて中央の主につながるゆえに主の手となる。ケルブは、翼(蓮華)にくるまれ、翼は手(茎)に連結している。読者は金剛杵を思い出すとよいだろう。手は鋭いもろばの剣とおなじで真鍮色に輝いている。

 英文では「four sides」となって、4つの生きものの位置関係が明瞭となる。 ケルブの「球体/輪」は、蓮華につつまれ、神の玉座中央の周囲にそれぞれ十字の位置にあり、6つの翼につつまれ、手で主とつながっている。外側には、彗星の尾のようなたなびきをまっすぐに放射し、先端は2つに割れている。


So he dorve out the man; and he placed at the east of the garden of Eden Cherubims, and a flaming sword which turned every way, to keep the way of the tree of life..

「神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、(どの方向にも)回る炎のつるぎとを置いて、命を木を守られた。」 創世記3-24

 命の木と善悪を知る木とがあり、その回りには4つの生きものと回る炎のような剣がある。ケルビムと回る炎の剣とはマンダラ(蓮華)そのものではないだろうか。そして、このつるぎはどの方向にも回る。
○足と手とは何か?

 エゼキエルが、footは生きものに対応し、handは顔に対応し使い分けたと考えると、実はこの2つはおなじような形をしているとになる。その理由は、属性が似すぎているからだ。どちらも、もえる真鍮の輝きをもっている。どちらも、真っすぐである。どちらも蓮華に象徴されるあのもののようだ。
構造的にクローンであるから、中央と4つの輪にたいしておのおのに言葉を換えて描写したと推測される。


<第十二章完>

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